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新たな建築をめざして

私は、昨今の「建築」に失望している。

かといって、建築に見切りをつけたわけではない。

事実はその逆で、建築の力を信じているが故に、昨今の「建築」に失望しているのである。

それはなぜか?

実社会において「建築」を建てるとき、その殆どが施主の意向に即して、与えられた敷地境界線の中に設計をする。そこではその「建築」を建てる必然性も、本来はどのような用途が必要なのかも、社会に対する影響力も問われることがなく、施主によって与えられた枠組みの中で「建築家」は悪戦苦闘する。すると、「建築」は都市からどんどん切断されていき、「作品」として存在するしか先が見出せなくなる。

なぜ「建築」は都市から切断されるのだろうか。

それは、施主の大半が「建築」を都市の一因子としてではなく、国家や資本のための器としてしか見ていないからである。

ここでいう都市とは、ジェイン・ジェイコブズ著『都市の原理』に倣い、「生存物資や技術、人材等を外部と交換することによって成立する生存拠点」を指す。そこにおいて、人間は人間らしく活動できることが最優先されるべきである、というのが私の立場である。ジャック・アタリ著『21世紀の歴史』における宗教人・軍人・商人という集団内の権力の在り方に従えば、都市(人民)―国家(行政)―資本(企業)が三つ巴の様相を呈しており、これまでの歴史はこれらのバランスによって成り立っていると考えられる。そして現在は、かつてないほどに都市が国家・資本に押し潰されている状況にある。

つまり、現代は人間が人間らしく生きることが出来ないという状況を耐え抜いて生活することを余儀なくされており、「建築」はそれに加担しているという構図が見て取れるだろう。

いっけん、人間が人間らしく生きることが出来ない、というのがピンと来ない人もいるかもしれない。

ところが、私たちは日常生活の中で意識的にも無意識的にも、国家や資本にとって都合の良いように監視され、管理されている。この具体例はぜひ考えていただきたい。

大事なのは、私たちですら息苦しさを感じる世の中において、文化・社会的階級・性差・国籍等といった様々な観点から社会的マイノリティと称される人びとが、どれだけの生き辛さを感じていることだろうか、ということである。

その末路が、世界各地で生じているテロや紛争という、死を伴う暴力によって発露していると言える。これは都市から排除された人びととそれを利用して金儲けを企む軍産複合体が生んだ当然の帰結である。

昨今の「建築」およびその「建築家」は、自らを生きながらえさせることを最優先するがために、多様性を排除した、一様な都市環境をつくり出すことに非常に貢献してしまっている。たとえそれに自覚していようとも無自覚であろうとも。

したがって、これからの社会を築いていく私たちの世代が、新たな建築をめざして、多様性を許容する都市の視点から、建築を再考しなければならない。

そのための手段として何が考えられるか?

現時点で考えつくのは大きく3つである。

一、都市計画に関与することで仕組み・ルールをつくること。

二、多様性の許容を重んじる施主と協働すること。

三、自ら土地を購入して、それを実現する建築とすること。

”理想と現実は違う”と揶揄されるかもしれない。”もっと社会を見ろ”とお叱りを受けるかもしれない。

しかし、そんな彼らが無責任に現実と社会を見続けてきた結果が、このような惨事を招いているのではないか。だとすれば、理想こそが、信じるべき唯一の事実なのではないか。

これを実行するために、如何なる努力も惜しんではいけない。

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