身体の境界はいったいどこにあるのか。あるいは、個人が管轄する領域とはどこまでなのだろうか。
文化人類学者Edward Hallのパーソナルスペースに関する理論はあまりにも有名であるが、今回は個々人における境界の規定について考えたい。
電車に乗っていると、よく「リュックは前に抱えるか網棚に置いてください。」というサインを見かける。
なぜこのようなことが注意喚起されるのか?
それは、リュックを背負う人の中には、後ろ側への配慮が足りず背後の乗客に接触する等の迷惑をかけるからであると予想される。
しかし、これはリュックに限ったことだろうか?
トートバッグを肩に掛けている人、手提げカバンを身体の横に持っている人、傘を斜めに持っている人、等々…
少し考えただけでも、リュック以外にも私が電車内で出くわした不注意な人のパターンがいくつも挙がる。
ここで、身体の境界性について。
河野哲也氏の『境界の現象学』で扱われているように、生物(われわれ人間をもちろん含む)が環境から独立するための第一の境界として、「皮膚」がある。
境界とは、基本的にある領域の内部と外部を分けるときに発生するものであり、皮膚は個々人を規定する境界として最も根源的である。
そこに衣服や化粧をして境界を拡張していくわけである。
ここで考えたいのは、人間の身体に携わる道具(ここで言う道具は、カバンや衣服、アクセサリー等も含めて身体に外装されるもの全般を指す)は、身体の境界の延長として把握できるということである。
例えば、字を書くとき。ひとはペンをまるで指の延長であるかのように自在に操る。
テニスをするとき。ラケットは腕の延長としてボールを受け止め、跳ね返す。
ごはんを食べるとき。箸は指先のように食べ物を掴む。
このように、身体の境界は、身体に携わる道具によって、皮膚を超えて容易に変化するのである。
つまり、貴方に携わる道具はあなたの身体の一部である、ということである。
ここで、前述の電車内における注意喚起に戻りたい。
これはあくまで推論の域を脱しないのだが、迷惑をかけている人の多くは、自身が他者に迷惑をかけているという認識を持っていないと考えられる。
それは、彼らに携わる道具に対して、彼らはそれを身体の境界の延長であると認識していないことを意味する。
つまり、文字通り道具に神経が通っていないがために、自分の周りで何が起きているか、何を起こしているのかについて、感じないのである。
従って、彼らにおける彼らに携わる道具は、彼らによって自己と他者の間で宙づりにされているということである。
分かりやすく言えば、彼らは自分の持ち物に極めて無頓着である。
更に言えば、自分の境界を思い描くことが出来ない、想像力に乏しい人間である。
さらに、身体の境界の延長がもたらす影響について。
これまでは延長された境界は自己の目に見える形であったが、例えば匂いや外見のように、他者の存在によって規定されるケースもある。
鷲田清一氏の『顔の現象学』において、顔は自己のものである以前に、共同性の様相である、とされる。
自分自身では鏡が無いと自分の顔を見ることが出来ないが、他者の目には常にさらされている。従って、その他者によって無意識的に顔は形成されていくというわけである。
従って、身体の境界は他者の存在によっても変化する。
というより、自己の内発的な外部への拡張力と、他者からの外力との平衡によって身体の境界は規定される。
そして、その境界は線的ではなく、面的に(あるいは立体的に)形成されている。
というのも、当たり前の話だが、電車内で迷惑をかけるためには、迷惑をかける相手がいないと成立しないためだ。
そして、電車内で迷惑をかける人は、自分の持ち物に極めて無頓着であると同時に、他人への思慮にも欠けるという、二重に想像力不足であることが指摘できる。
現代は個人の時代であるとよく言われるが、個人の領域については殆ど問われていないのではないだろうか。
空間的に認識すれば、個人であるからこそ、集団よりも境界の総面積は拡大しているのでる。
この境界をデザインすることが、今求められている。